死に至る望み、そして(血闘編)

第五章嘘、仮面、硝煙
Liar, Liar, and the Fire

ピンク色のネオンの瞬きは、媚びを売る街娼の片眼にも似て妙にゆっくりだ。塗り直したペンキも真新しい大衆酒場を横目に通り過ぎる。この界隈では小ぎれいな店はたいてい観光客向けで、法外な値段をふっかける。めざすはその隣の古びた青い化粧漆喰の建物だ。雨に濡れたアスファルト舗装の上に乗っかっている、という印象。両開きのドアには細長い窓が二つ。深海を思わせる暗青の窓ガラスに蛍光塗料の文字が踊っている。
 〈クワイエット・ブルー〉。
 プリンスから渡されたリストの、五軒目の店だ。
 両開きのドアを肩で押して入ると、静寂が耳を打った。実際には、低い囁き、音量を絞ったBGM、ガラスが触れ合う音、人々の衣服がたてる衣擦れ、そういったものが渾然一体に押し寄せてきたのだ。だが、ディスコの喧騒を脱け出してきた後では、そのざわめきすらも静寂に聞こえた。
 店内は奥行きのわりに恐ろしく幅が狭い。建物は両隣の店より古そうなのに、あたかも両隣の酒場の隙間に建てられたように見える。L字型のカウンターが部屋いっぱいに走り、スツールの後ろには人間がかろうじてすれ違えるだけの空間があるきりだ。空気には様々な煙草とアルコールと香水の匂いが充満している。
 L字の縦棒の端にあいたスツールを二つ見つけた。少々くたびれた服装で年齢不詳のバーテンがカウンターの向こう端からやってきた。足音はしない。
「ジントニック」アルフォンスはそう言って、カウンターに五十ドル札を置いた。「それと氷をたっぷり」
 隣でサレインが「スティンガー」と注文すると、五十ドル札はさっと消え、二つのグラスと十ドル札三枚になって戻ってきた。値段は一流だ。アルフォンスが口を開きかけた機先を制して、サレインがすばやく言った。
「この店は貴方がおごる番ですよ」
「いちいち覚えているんだからなあ」
 アルフォンスは苦笑して、ジントニックを形ばかりあおる。
「しかし判らんね、サマンサ・ドレイクって女は」
「多趣味というか、無節操と呼ぶべきか……」
 サレインが溜息をついたのも無理もない。リストによれば、サマンサがよく立ち寄っていたという店は全部で八軒。店名と住所を頼りに半分回ってみたが、最新流行のディスコから穴場のジャズクラブ、独身者向けバーと、まったく共通点がない。残り半分もどんな場所やら、先が思いやられる。まあ、溜息の原因は他にもあるのだが。
 二つ離れたスツールの方から視線を感じて、サレインが横目で見やると、女が一人で水割りを飲んでいる。サマンサではない――少なくとも話に聞いた「目の覚めるような美人」には遠い。とはいえ、どうやら先方はサレインに流し目を使っているつもりらしいし、バーテンと退屈そうに会話をかわしているあたり、常連客にちがいない。
〈ここは、彼女に聞いてみるとしますか〉
 サレインは今はじめて女の視線に気づいたような表情を作って振り返った。女が眉を吊り上げ、意味ありげな笑みを浮かべる。サレインはそんな状況に慣れていないような、多少どぎまぎした風に、おずおずと微笑み返した。案の定、女は水割りのグラスを片手にこちらに引き寄せられてくる。
「隣、いいかしら、お兄さん?」
「え? ええ、ど、どうぞ」
 文学青年風の彼には(実際、大学では文学専攻なのだが)気弱げな微笑が実によく似合ったし、彼自身、それが女性の保護欲をかきたてることをよく知っていた――半世紀以上も吸血鬼をやっているのだから。彼の「手口」を知っているアルフォンスはリストを読んでいる振りで笑いを押し殺している。なにしろ今夜は全く同じパターンを四回も見ているのだ。ここまでくると嫉妬を通り越してすでに喜劇である。
 そうして、五度目の喜劇の幕が上がった。

 女は聞きもしないうちからよく喋った。芸能界やファッションの話題にはいいかげん飽き飽きしていたサレインには、英文学が好きで自分で詩を書くのだという彼女は話が合わせやすい相手だった。読書量ではアルフォンスも負けていないから、なんとなく当初の色っぽい雰囲気が抜けて三人で文学をさかなに盛り上がるという形になった。もっとも、そのおかげで後から加わった他の常連客からも情報収集できたわけだが。
 サマンサ・ドレイクは常連客の間では「サミー」で通っているらしかった。フルネームを聞いたことがあるのは二人だけで、どちらにもでたらめの姓を名乗っていた(しかも二人がそのことに気づいたのは今夜が初めてだった)。「サミー」の職業は絵画専門の美術商らしい――この店では。先刻のディスコでは「サミー」は高級コールガールだったし、その前のジャズクラブではさる有力な州議員の愛人だった。独身者向けバーでは、離婚して慰謝料で裕福に暮らしていることになっていた。今度こそ共通点が出てくるのを期待していたアルフォンスとサレインは頭をかかえた。
「なんでも秘密っぽいのが好きなのよね、あの人」最初の女が言った。「謎の女って形容詞が似合う雰囲気があるし。怪しげな肩書きとか使い分けて、いろんな自分を演じるのが面白いんでしょ、きっと。でも少なくともお金持ちなのは確かよ。服とかアクセサリーとか、物凄なんだから」
 結局、収穫らしい収穫といえばその一言だけだった。まだ未練ありげな様子の女をなんとかあしらって〈クワイエット・ブルー〉を出た時には午前二時を回っていた。要するに方々で飲み代を払って同じ話を五度聞かされたわけで、精神的疲労は大きい。
「六軒目……行ってみますか?」
 さすがのサレインの口調も重い。
「もういい。俺はもうたくさんだ。少なくとも今夜は」
 アルフォンスは片手でこめかみを押さえている。今夜一晩で聞いた無数の会話が頭の中でがんがん反響していた。生前、二日酔いした時の気分というのも、たぶんこんなものだったのだろう。
「俺は帰って寝るぞ。ウィルとムラトが何と言おうと知るもんか」
「そういえば、あちらは収穫あったんでしょうかね」
「あったら連絡ぐらいよこすだろう、何のための携帯電話だ。まったく、ミス・ドレイクも人を呼びつけといて、いい度胸じゃないか」
 プリンスの謁見の後、四人はドレイク邱に電話を入れたものの返事はなく、直接行ってみれば屋敷は厳重に戸締まりしてあり、まるで空き家だったのだ。仕方なく翌晩から二手に分かれ、ウィルとムラトはサマンサの狩り場である港湾管理局周辺で張り込み、アルフォンスとサレインはリストの遊び場を片っ端から回ってみるということになった。ドレイク邱に忍び込むという手もあったのだが、これにはウィルが反対した。いわく、彼女の家を捜索する公式の許可は出ていない。家捜しの真っ最中に御本人が帰ってきたりしたら、笑い事では済まされない。ましてやいつ帰ってくるか予測もつかないのに、リスクが大きすぎる、と。
 背後から二人を呼び止める声がした。
「おおい、待ってくれ」
 振り返ると、長髪で人の好さそうな風貌の若い男がにこにこ手を振っている。常連客の中には見なかった顔だが、服装に見覚えがあった。たしか店を出る時にすれ違いでやってきた客だ。
「何か?」
「今さっき中で聞いたんだけどさ」長髪の男はサレインに声をかけてきた女の名前を挙げた。「あんたたち、サミーを探してるんだって?」
「どこにいるか御存知ですか?」
 アルフォンスは期待を抱くまいと思いながらも尋ねた。
「御存知もなにも、今からおれ、サミーんとこにパーティーに行くんだよ。なんだったら、あんたたち一緒に来る?客が一人や二人増えたって、向こうはかまやしないよ」
 思わずアルフォンスとサレインは顔を見合わせた。なんというタイミングだろう。
「サミーの所というと、ファーミントン街の屋敷ですか?」
「違う違う。そんな郊外じゃなくてもっとダウンタウンの方の……」男はぽりぽり頭を掻いた。「なんつったっけ、おれ、所番地覚えるの苦手なんだけど、とにかく高級マンションの一番上。ペントハウス」
 サレインは目を細めた。オーラは――人間だ。嘘は――たぶんついてない。少なくとも、意識的にこちらを騙そうという様子はない――今までのところは。男はサレインの表情が変わったのを誤解したらしく、あわてて付け加える。
「あ、大丈夫、道順は分かるから。こっからだとちょっと歩くけど、心配ないない。酔い覚ましに丁度いいって」
「5分待つ気があるなら、車で送ってやるよ」
 アルフォンスはそう言って、携帯電話を取り出した。

 5分というのは言葉のあやのつもりだったが、驚いたことにきっかり5分後、例の真っ赤なバンがタイヤを鳴らして〈クワイエット・ブルー〉の前に停まった。ムラトがどういう『華麗なドライビングテクニック』を使ったものか、アルフォンスには聞く気にもなれない。後部座席のウィルの顔色がいつにもまして蒼白いのは目の錯覚ではあるまい。
「ちぇっ、おまえら今までずっと女をとっかえひっかえ喋ってたのか。俺もそっちに行きたかったぜ」
 事情説明は電話で手短に済ませたのだが、長髪の男――ドンと名乗った――と二人を乗せて車をスタートさせた後も、ムラトはまだぶつぶつ言っていた。港湾管理局はよほど退屈な場所だったらしい。
「ところで、サミーはこんな真夜中にパーティーを開くんですか?」
 サレインが聞くと、ドンはうなずいた。
「気が向いた時にはね。わかるだろ、サミーみたいなお金持ちは、したい事をほんとにしたい時にするんだ。集まるのは顔なじみばっかだし、気楽なもんだよ。おれもしょっちゅうご馳走になってる……っと、しまった。金持ちで思い出した。なあ、悪いけどちょっとコンビニに寄っていいかな。次の信号を右に曲がってすぐのとこなんだけど」
 ドンは座席から身を乗り出してムラトに話しかけた。ちょうど交差点の信号が赤に変わる。
「金持ちとコンビニと、どんな関係があるんだ?」
 ムラトが怪訝な顔をした。
「こないだサミーに200ドル借りてさ、今日のパーティーに来た時に返すって約束してたの、すっかり忘れてたんだよ。確かそこのコンビニは現金自動引き出し機があったはずなんだ」
 筋は通っている。しかし、どこかきなくさい。元テロリストの勘にひっかかるものがある。
「サミーってのはそんなに金にうるさい女なのか?」
「とんでもない! 彼女は寛大なひとさ」
 ドンは強い口調で否定する。声に混じる、個人的感情と
――なにか別の、漠然とした恐れのようなもの。
「そりゃ言えば待ってくれるさ、200ドルぐらいサミーには小銭だよ。でもおれは約束を守る性分なんだ。それに――ほら、なんか恰好悪いだろ?」
「わかったよ、どのみち道案内はあんただ」
 信号が青に変わり、ムラトはハンドルを右に切る。ドンの言うとおり、コンビニはすぐに見つかった。道路をはさんで差し向かいに駐車場があったが、狭いせいか深夜のわりに空きは一つしかなかった。またしてもムラトの勘がうずく。
 車が停まると、ドンは「悪いね、すぐ戻るから待っててくれよな」とそそくさと降りていった。コートの背中に、ほんの微かなこわばりをムラトの夜目が読み取った瞬間、予感は確信に変わった。
「あいつ、何をやらかす気だ……!」
 知らず、声に出して呟いている。ドンの後ろ姿に漂う緊張感。確実な期待にかぎりなく近い恐怖。ああ、俺はその感覚を知っている。色褪せた記憶の断片が蘇る。白昼。汗の臭い。心臓の鼓動。二度と味わうことのない感覚の名残。
 たぶんあいつは、あのときの俺と、同じ心境にあるのだ。
 初めてのテロの日、あの虐殺の日、アサルトライフルを握り締めていたとき。
 神がまだ生きていて、神こそがすべてだったあの頃。
 あいつの神はまだ生きているのだろうか。
 あいつの神は誰なのだろう?

 気がつくとが助手席のサレインの姿がなかった。
「私が尾けます。いつでも出られるようにしてください」
 おそらく彼はムラトにそう言ってから車を出たのだろうが、奇妙なことに、後でムラトが何度思い返しても、誰もいない空間にサレインの声だけが漂っていたような記憶しかないのだ。
 いつも穏やかなサレインを見慣れていたせいで、トレアドールも必要とあらばブルージャに匹敵する俊敏さで動く妖力を備えていることを思い出すのに、少し時間がかかった。

 ドンはサレインがついてきたので一瞬怪訝な顔をしたが、
「煙草を切らしたんですよ」
 と言われると納得した様子でコンビニの自動ドアをくぐった。口笛でエリック・クラプトンの『いとしのレイラ』を吹いていた。

そばで待つ人がいなくて
淋しい時にどうするんだ
ずいぶん長いこと逃げ隠れしてきて
もう 愚かしいプライドでしかないと思い知ったろう

 店内に他に客はなく、冴えない中年の白人女が一人、レジの中で退屈そうにしているきりだった。サレインが雑誌を眺めるふりをしていると、ドンはまっすぐ奥の半透明のプラスチック板で仕切られたブースに入り、現金自動引き出し機のボタンを叩き始めた。仕切り板の向こうから口笛だけが聞こえてくる。

慰めてやるつもりだったんだ
おまえの男は失望させやしない
莫迦みたいに 俺はおまえに惚れちまって
世界がまるごと ひっくり返っちまった

 サレインはぶらぶらレジの方に歩いていって、陳列ケースに並んだ煙草のパッケージを眺めた。口実にしたからには何か買わねば怪しまれるだろうが、生前から吸う習慣はなかったし、今では吸っても仕方ない。ざっと眺め渡して目についたのを一箱買った。どんな味がしようが、どうせ吸いやしないのだ。

この状況を うまくやってのけよう

 駐車場で車に残った三人はじりじりしながら待っている。コンビニの店内で、ドンが奥のブースに入ったきり出てこないのが見える。煙草を買うふりをして見張っていたサレインが、とうとう間がもたなくなってブースを覗きに行った。
 角を曲がってアル中が一人、よろめきながら駐車場に入ってきた。よれよれの長いレインコートを着ている。ちょうど三人の車の前を通りかかった時、裾が足に絡んで前のめりに転んだ。
 立ち上がった時、アル中は黒光りする杖のような長いショットガンを構えて、銃口をムラトに向けた。

俺がいよいよおかしくなってしまわないうちに

「伏せろ!」
 ムラトの叫びとフロントガラスが砕け散るのが同時だった。

 どん
 と思いきり背中を突き飛ばされたような衝撃に、サレインの体は半回転して、赤い生温い液体を撒き散らしつつ床に転がった。一瞬、視界の端にレジ係の中年女がサブマシンガンを構えているのが映った。女は笑っていた。声を立てて笑っていた。甲高い声を立てて笑っていた。生白い顔じゅうに醜い中年の皺を寄せて笑っていた。
 さもあらん、とサレインは思う。
 僕の腹にはとびきり大きな風穴が開いている。シュールな漫画そっくりに。

 どん どん どん
 バックミラーが吹っ飛び、シートが裂け目からウレタンを撒き散らし、ウィンドーに散弾が食い込んだところで、不意に銃声がやんだ。がらりと路上に重い物が投げ棄てられる音がした。全弾撃ち尽くしたのか、弾詰まりでも起こしたのか。
 ムラトはそっと向こうをうかがってみる。アル中は頭までやられているのか、支離滅裂なことをわめきながら身をひるがえして逃げ出した。
「……の野郎!」
 ドアを蹴り開けてムラトは後を追う。

 サレインは身震いした。急激に体が冷えてくる。相当な量の血液を失っている。
〈まずい〉
 立ち上がり、棚の陰に転がり込んだ足が思うように動かない。フルオートの火線が頭上を横一線に走り、ポップコーンとポテトチップスの雨が降り注ぐ。
〈少し再生しないと走るのは無理だ〉
 恐怖を抑えつつ、体内の血液を負傷した部位に集める。肉の空洞を他人から盗み取った血で満たし、新たな肉に変える。
 レジの方でドンの口笛がまだ聞こえていた。

俺たちはどうにもならないなんて言わないで
俺の愛情が無駄だなんて言わないでくれよ

 ドンの靴音が走る。どこかのドアが荒々しく開閉する音。がらんとした空間に反響しつつ遠ざかる靴音。そして彼方で、バイクの排気音が遠ざかる。
〈やはり……彼は罠のエサか〉
 サレインの中で納得はついたが、もの悲しい気分が残った。ほんの半時間の道中だったが、ドンのにこにこ笑う顔がなんとなく好きだった。

 きゃはははははははっははあははっはっはっは

 狂ったように笑う女の声が近づいてきて、サレインは我に返った。彼はまだ罠の中なのだ。棚を背に立ち上がってみる。貧血で頭がぐらぐらする。まだ再生は完全ではないが、なんとか体は動きそうだ。〈鬼速〉を使うだけの血がまだ体内に残っていることを祈って、サレインは入口の自動ドアめざして走り出した。なぜか、そこを抜ければ助かるような気がした。

 ウィルは闇の中、靴の裏にガラスの破片を感じながら車内にうずくまっていた。右手に護身用のリボルバーを握り締めて。そうして車の床に近い位置にいなかったら気づかなかったろう――車の下からエンジン音とは明らかに違う、シューシューパチパチという軽い音が聞こえてくるのに。
「ウィル」アルフォンスの声がした。「足元が妙に温かくないか?」
 暗闇の中で二人は顔を見合わせた。
「逃げろ!」

 サレインは自動ドアのガラスの向こう、道路を隔てた駐車場に、鮮やかなオレンジの火柱が立ち上るのを見た。ムラトたちがバンを停めて待っているはずのその場所に。
 背後から肩に熱い激痛が叩きつけられ、サレインは今度こそ、本当に絶叫した。

「ナパームだ」
 炎上するバンを遠くから茫然と見つめてアルフォンスは呟いた。脱出があとほんの数秒遅れていれば、今ごろは……と考えると背筋がうそ寒い。
「いつ、仕掛けられたんだ……?」
 ウィルが呟いた。罠と知っていながらみすみす完全にはめられてしまった自分に腹が立った。
「良かった、二人とも無事か」
 ムラトが戻ってきた。
「アル中野郎は?」
「見事にまかれちまった。〈鬼速(Celerity)〉まで使ったんだがな」
「ヴァンパイアが妖力で隠れたとしか考えられんな。アル中は演技だろうが、あのイカレ具合はまずマルカヴィアンだな」
 不意に三人ははっとコンビニの方を見やった。ショットガンの襲撃を受けてから初めて、ほんとうに、そちらを見た。
 割れたガラスと商品が散乱し、レジは無人。そしてその前に、あたかもバケツで思いきりぶちまけたような、真っ赤な、血。
 血だまりに浮かぶ黒い煙草の箱。
「サレイン!?」
「僕は生きてますよ、なんとかね」
 疲れ果てたような声で返事があった。
「そっちこそ、みんな燃えちゃったんじゃあないかって、ひやひやしたんですよ」
 まだ脇腹と肩の傷も癒えきらぬまま、車のボンネットにもたれて現れた姿に、その晩初めて、四人ともが心から微笑した。

『……今朝未明、ニューオーリンズ市セント・チャールズ街のコンビニエンス・ストアで何者かがサブマシンガンを乱射し、従業員1人が死亡しました。同時に、駐車場に焼夷弾が投げ込まれ、車1台が爆発し、2台が巻きこまれて炎上しましたが、この爆発による怪我人はなかった模様です。
 亡くなった従業員は当夜出勤していたマシュー・フォートさん(35)で、銃声を聞きつけた住民の通報で駆けつけた警察が、奥の倉庫で胸や脚を撃たれて死亡しているフォートさんを発見しました。
 警察によれば、金品を物色した様子はなく、また、駐車場でも銃が発砲された痕跡が見つかったことから、最近抗争が過激化しているストリート・ギャングがここで銃撃戦を行ない、フォートさんはそれに巻き込まれたのではないかということです。
 次のニュースです。ホンジュラス内戦干渉疑惑で、合衆国陸軍はロペス暫定政権の指摘する〈特異能力をもつ特殊部隊〉の存在を真っ向から否定し……』

――12月11日午前7時、「モーニング・ヘラルド」
のニュースキャスター

第六章狂気のかたち
White-Washed Tomb

「災難だったな。サマンサも派手にやってくれる……こちらも警察を抑えるのに一苦労だ。君たちも疲れているだろうが、休む前にこの手紙を見てくれないか。今しがたメッセンジャー・サービス経由で私のところに届いたものだ」

ウィル・ミンスター様
アルフォンス・ルイ・コンスタン様
サレイン・ヴェストマール様
ムラト・トクジャン様

 はるばるお越しいただいたところを、ご挨拶が遅れて申しわけありません。もしよろしければ、明晩、午前零時に私宅にてささやかな夜会を開き、改めてお目にかかった上で問題の一件について話し合いたいと存じますが、そちらのご都合はいかがでしょうか。お手数ながら、折り返し私宅まで御電話をいただきたくお願い申し上げます。

サマンサ・ドレイク拝

『ウォルシュだ。その声はウィルか?何か進展はあったかね』
「確証といえるほどのものは、まだ。サマンサは事件をプリンスに訴えたあと行方をくらませています。マイケルから話を聞いた限りでは、事件そのものがサマンサのでっちあげという印象を受けます。それに、また襲撃がありました」
『ルシアンの?』アルカディアンの声がとがった。
「いえ、マルカヴィアンらしきヴァンパイアが二人です。今度は人間を利用して誘い出したり、バンに爆弾を仕掛けたり、手口が凝ってます。さいわいサレインが負傷しただけで済みましたが
 あなたの推理どおりなら、我々が狙われるのも筋がとおります。サマンサはあなたに来てほしいだけで、調査は口実にすぎない。我々は単なる邪魔者だ」
『何が言いたい? ウィル』
「実はいま、サマンサから夜会の招待状が届きました。マイケルの事件について話し合いたいと言ってきているんですが……」
『結構じゃないか。向こうの言い分を聞いてきたまえ』
「どうせ手紙と同じ話を聞かされるだけでしょう。出かけるまでもないか、と」
『と、いうと?』
「今夜の襲撃犯は十中八九、無許可で創造されたヴァンパイアか、〈血の呪縛(ブラッド・ボンド)〉を受けている者でしょう。そうでもなければ〈六戒〉破りと知りながらあれほど堂々と同族を襲えるはずがない。いずれにせよ、今夜の襲撃犯に対しては〈血族狩り(ブラッド・ボンド)〉を招集する充分な理由があります。彼らを捕えれば、無許可の子供かどうかはすぐに判る。無許可なら彼らの祖も〈血族狩り〉の対象になるでしょう。そうでないにしろ、襲撃を指示した者もただではすみますまい」
 プリンスは、領地内のヴァンパイアを招集して掟破りを滅ぼす権利を持っている。それが〈血族狩り〉だ。プリンスの許しなく子供を創れば、祖子ともども滅ぼされる。同族を滅ぼした者もまた〈血族狩り〉の対象になる。
『〈血族狩り〉を招集すれば、いずれサマンサが引っかかると言うのか』
「はい」
『しかし、憶測が多いな。それでプリンスが動くかな?』
「サマンサはプリンスの子供に〈悪魔の業〉の濡れ衣をかぶせたわけですから。ミスター・ジョンソンの子煩悩は御存知でしょう。それに彼はプリンスとしては世代が若い。統治能力に疑問を持つ者もいます。〈血族狩り〉はプリンスの威光を示す恰好のパフォーマンスになるでしょう」
 電話線の向こうでしばしの沈黙のあと、ノイズ混じりに低い乾いた笑いが響いた。
『若いわりに食えんことを言う。さすがはヴェントルーだな』
「恐れ入ります」
『アイデアとしては悪くない。わしもその方が楽でいい……しかし、万が一のために確証を一つぐらいは押さえておきたいのだ。憶測だけで動いたと知れては、〈円卓会議(Inner Circle)〉におわす7人の長老にわしの捜査能力を疑われかねん』
 〈枢密院〉の中枢組織の名を聞いて、ウィルはおもわず身震いする。
「……そんなに上の方まで関心を集めているのですか、この事件は」
『報告を要求されたからには興味を持たれた御方がいるのだろうな。そういうことだから、やはりサマンサの招待は受けたまえ。疑問点ははっきりさせておくべきだが、〈悪魔の業〉の容疑については伏せておけ。まだ推測の域を出ないことだし、マルカヴィアンだけに不用意に刺激するとかえって予測がつかん』
「……はい」
『わしは明日の午前4時半頃にニューオーリンズに着くだろう。報告はプリンスのヨットで聞くとしよう』
「わかりました。では明晩」
 受話器を置きながらウィルは唇を噛んだ。
 判っていながら、みすみす敵の手中に飛び込めというのか。


『……まあ、早速お電話くださったのね。私がサマンサです。…ええ、ここ数日は友人の家におりましたの。たったいま空港から帰ってきたところ。……でもそういう話題を電話ごしにするのもどうかしら。あすの晩、私の家でゆっくりうかがいますわ。それでいかが?……では、お待ちしています』

 爆破されたバンの代わりにプリンスが手配してくれた運転手付きのリムジンでドレイク邱に向かった。たしかにあるじは帰ってきているらしく、鉄のゲートは開かれ、「立入禁止」の看板も外されている。
 手入れの行き届いた広大な庭園を抜けると、古色蒼然とした屋敷が月光を背にそびえ立っていた。植民地時代の様式で、裕福な上流階級の住まいにふさわしい重厚な石造りだ。家中の窓が開け放たれ、夜風にそよぐカーテンの間から煌々と明かりが漏れている。四人がリムジンを降りて、これもやはり開け放たれた玄関に近づくにつれ、かすかに中から室内楽が聞こえてきた。いまにもどこからか豪奢なイブニングドレスに身を包んだ淑女やそれをエスコートする紳士たちが現われそうな錯覚にとらわれる。
 古風な呼び鈴を鳴らすと、カラン、と深い音色が邸内に響きわたった。
 幽かな衣擦れの音にサレインは目を上げた。上げた視線の先に女の白い顔があった。

 鮮やかな、という形容が似合う、美しい女だった。吸い込まれそうなほど深い紅の夜会服。紅玉の首飾り。居るだけで周囲のものが華やかに輝きだすような、存在感に満ちた女。
 彫刻のように滑らかな首と、眼も醒めるような美貌。くっきりと優雅な眉。紅を引いているせいか、それとも着衣の紅が映えているからか、まるでヴァンパイアではないような、そう、生きているかのような透き通る肌。
 女は一瞬、切れ長の緑の瞳でまたたきすると、鮮やかな微笑みを浮かべた。映画のスローモーションに妙に似ている。
「ようこそおいでくださいました。外は寒かったでしょう? どうぞお入りになって」
 四人とも、ほんのちょっとの間ではあるが口が利けなかったというのが本当のところなのだが、女はこちらが自己紹介を待っているとでも思ったのだろうか、もう一度長い睫をしばたたかせると、再び口を開いた。
「お会いするのは初めてですわね。私がサマンサ・ドレイクです。こちらは私の親友、ヒース」
 手ぶりで示されて、ようやく四人はサマンサの傍らに金髪の女ヴァンパイアがいるのに気づいた。ヒースと呼ばれたヴァンパイアは若かった――少なくとも十六、七歳より上には見えない。フォーマルな黒のミニドレスを着た、かなりの美少女だったが、サマンサと並ぶとどうしても印象が薄かった。
 互いに名乗りあった後で四人は邸宅の奥、豪奢な応接間に通された。調度は古いが、高級なものばかり揃っている。様式からみておそらくこの屋敷が建てられた当初から在るものだろうとアルフォンスは睨んだ。どこかに埋め込まれたスピーカーからブランデンブルグ協奏曲が静かに流れている。サマンサは金髪の少女の方を振り返って言った。
「ヒース、悪いけどお客様にワインを持ってきてくれないかしら。今夜はもう使用人も帰ってしまったし。場所は知ってるわよね?」
 ヒースと呼ばれた女ヴァンパイアは頷いて部屋を出ていった。四人は勧められるままにソファに腰を下ろしたが、それも掛けるのがためらわれるような豪奢なアンティークの骨董品だった。
 間近で見るとサマンサ・ドレイクは一層美しかった。仕草のひとつひとつも華やかな表情も、まるでこうでなくてはいけないような、危ない緊張感を孕んで彼女の美しさを支えていた。狂い咲きの薔薇に似ている。冬のさなか、雪原にただ一輪咲く真紅の薔薇。たった一輪だからこそ鮮やかで、凛として、それでいてはかない。
「サレイン、見とれてる場合じゃねえぞ」
 サマンサの顔にまたもや見とれていたサレインはムラトに脇腹を軽く小突かれて慌てて我に返った。
「人を呼び立てておいて不在とは、ずいぶん失礼な女とお思いでしょうね」
「い、いえ……急用でもおありだったんですか」
「悪いのは向こうとはいえ、プリンスの子供を訴えてしまったもので報復が怖くなったんです。プリンスに訴え出た次の晩に飛行機をチャーターして、北部の方にあるヒースの家に滞在していました。もう少し早く戻ってくるつもりだったんですけど、帰りの飛行機の都合がなかなかつかなくて。皆さんには御迷惑をおかけしました」
 そう言ってサマンサが微笑んだ時、ヒースがワインのボトルとグラスを運んできた。

 サマンサの話は大筋の所ではウォルシュに宛てた手紙の内容どおりだった。
 事件の晩、いつものように狩りを終えた後でサマンサはマイケルに会い、シカゴからツアーで街に来ているという有名なブルースバンドの演奏を一緒に聞きに行かないかと誘われた。サマンサがマイケルの車に乗り込むと、暗い路地に入ったところで突然マイケルが襲ってきたという。血を吸われそうになり、かろうじて車のドアを開けて逃げ出したものの、長いあいだ執拗に追い回されたあげく、やっとのことで振り切った。翌晩、サマンサはアルカディアンに速達で手紙を出し、プリンスに訴え出る。次の晩、飛行機をチャーターしてヒースの家に行き、昨晩遅くに戻ってきたそうだ。
「あなたがたが考えていることは分かります。マイケルには動機がないっていうんでしょう。私もはじめ理解に苦しんだわ。でも考えられる可能性が一つある」
 サマンサは言葉を切り、鋭く眼を細めた。白ワインのグラスを占いでもするかのように凝視している。
「プリンス。ミスター・ジョンソンの差し金よ」
「どういうことです?」
 アルフォンスが聞いた。ウィルは話の途中で「風に当たってくる」とバルコニーに出ていったきりだ。すでに知っている話を聞くのは時間の無駄といいたいらしい。
「ミスター・ジョンソンはこのニューオーリンズを自分の子供たちだけの街にしたいのよ、誰だって知ってるわ。昔っから彼は自分の子供じゃないヴァンパイアに街を出て行くよう『勧めて』るのよ。そうすれば新しい子供を創って後釜に据えられるものね。でも私はずっと残ってきた――だってここは私の故郷よ、なんで私が出て行かなきゃいけないの?――それでプリンスはあのけだものみたいな子をけしかけて、今度は私を立ち退かせるつもりなんだわ!」
 サマンサの口調はしだいに激しい怒りを帯びてきた。
「マイケルはミスター・ジョンソンに命令されたのよ! 絶対そうに決まってる! あの晩私が逃げられたのは運が良かったとしか言いようがないわ。マイケルが私を押し倒した時の物凄い力といったら――」
 ヒースが悲鳴をあげた。
 憑かれたように喋り続けるサマンサの右手から、握り潰されたワイングラスの破片が血とともに零れ落ちたのだ。高価な絨毯にみるみる真紅の染みが広がった。
「サミー、だいじょうぶよ、落ちついて。マイケルは捕まったのよ。司法官ももうすぐ来てくれるわ。あなたは安全よ」
 サマンサの、瘧にかかったようにがたがた震える肩を背中からヒースがあやすように抱いた。震えがおさまってからサマンサの傍らに膝をついて、手のひらに刺さったままのガラス片を丁寧に取り始めた。抜くたびに新たな血があふれ、甘い匂いが室内に満ちる。
「ごめんなさい、彼女、発作を起こしたんだわ。心労が重なったものね」
 弁解するようにヒースは四人の方を向いて言った。むろん発作とはマルカヴィアン族の背負う呪い、錯乱のことである。

「まあ疲れもするでしょうね。――二晩続けてパーティのホスト役では」
 アルフォンスが口を開いた。
 膝の上で指を組み、真面目な面持ちでサマンサ・ドレイクを見つめている。
 感情の読めない、というより、どのようにもとれる表情だった。
 サマンサ・ドレイクもまた、うつむけた顔を上げ、能面のような捕らえどころのない眼差しでアルフォンスを見ている。
「それは、どういう意味に受け取ればよろしいのかしら」
「文字どおりの質問ですが」
 女ヴァンパイアの美貌に、ふっと表情が戻った。いかにも意外だというように眼を丸くする。朱い唇がうっすらと開き、長い睫が二度またたいた。
 ふつうの女がやったら芝居臭くなる。だがサマンサだとむしろこういう仕草のほうが自然に見える。さきほどの錯乱ぶりや、茫然とした顔のほうがよほど似つかわしくなかった。

〈似つかわしくない?――いや〉
 サレインの観察眼にひっかかるものがあった。
〈僕たちは彼女本来の表情を見慣れてないだけじゃないのか?〉
 ナイトクラブの常連客たちを様々な肩書きと名前を使い分けて翻弄したように、自分たちの前では芝居がかった仕草が似合う女を装っているのではないか?

「先刻も申し上げたけれど、昨夜は飛行機の中でしたわ。どうして私がパーティを開いていたとお思いですの?」
「自称あなたのお友達に一緒に行こうと誘われまして。ところが道中、変態が鉄砲を持って襲ってくるわ、車は爆弾で吹っ飛ばされるわ、気がついてみれば自称お友達はどこかへ雲隠れ。いやはや、結構な友人をお持ちだ」
 サマンサは束の間唇を固く結んだ。
「ゆうべ空港から帰ってきたのは夜明け前です。パーティーを開く時間なんてありません。ですから、その人が私の友達というのも嘘ですわ。おおかたミスター・ジョンソンの部下が私に罪をかぶせようとしたのでしょう。司法官の代理人を殺めてまで私を追い出したいのかしら。驚いた」

〈嘘だ。ちっとも驚いてなんかいないじゃないか〉
 サレインは心の中で呟く。
〈あなたのオーラは揺らぎがなさすぎる。アルフォンスの質問はすでに予測済みだったんでしょう?〉
 疑惑を裏付けるように、サマンサが答え終えた時、オーラにほんのすこし、たしかに安堵の色が混じった。

「ところでこの辺は地図で見るより随分と郊外なんですね」
 アルフォンスは質問を変えた。
「静かでいいが、狩りに出る時は不便でしょう? ああ、でもダウンタウンの方にペントハウスがあるんでしたね」
 彼はサレインと違い、オーラを読むのは得意ではない。もしサマンサの訴えが狂言だとしたら、問い詰めてゆけば細部できっと矛盾した発言が出てくる、という考えだった。
「ダウンタウン? いいえ、ニューオーリンズでここ以外に住んだことはないし、そのつもりもありませんわ。それも自称私のお友達の作り言ね」

〈はい、上手にできました。つっかえもせず滑らかな台詞回しだ〉
 サレインはしだいに良くできた脚本を演じる女優を見ているような気分になってきた。

〈だが、台本を完璧に用意しすぎた〉
 アルフォンスは隣のサレインの表情をちらりと見て、自分の推測が正しいことを確信した。
「おや? あなたがダウンタウンにペントハウスを持っているという話を誰から聞いたか、私はまだ申し上げた覚えはありませんが。なぜ御存知なんです?」
 サマンサの作り物めいた驚きの表情が、凍りついた。
〈そうだろう。あなたは用意した模範解答をそのまま言ってしまったんだ――状況に合わせて修正するのを忘れて〉
 ヒースがアルフォンスの方をきっと睨んだ。
「あなたの話から推測したのよ。サマンサはすごく頭がいいんだから」
「私はミス・ドレイクの自称友人から彼女が昨夜パーティーを開くと聞いたとは言いましたが、ペントハウスの話の出所がその自称友人氏だとはひとことも言ってません。聡明な方なら、プリンスが偽の情報を教えたとか、以前にあなたがでまかせに裕福な身分を名乗ったことから噂に尾鰭がついたとか、それこそ可能性は無限に思いつくはずだ。
 ふつうは断言までしませんよ。――自称友人氏がペントハウスの話をすることを、あなたがあらかじめ知ってでもいない限りはね」

「詭弁だわ!」
 叫んで立ち上がったのはヒースの方だった。視線は変わらず、アルフォンスを見つめたまま。
〈そう、詭弁だとも。でも冷静さを失った時点で君たちの負けだ〉
 アルフォンスは気取られない程度に、ほんのすこし微笑む。
 せいぜい怒るがいいさ。感情的になればなるほど、オーラもごまかしにくくなる。
「あなたたちも結局プリンスの肩を持つのね! マルカヴィアンの司法官の下で働いてるくせに、同じマルカヴィアンが濡れ衣を着せられてなんとも思わないの!」
「俺たちは証拠を集めているだけだ」ムラトが低い声で言った。「誰が裁かれるべきかは司法官が判断する。残念ながら、今のところあんたの訴えが事実無根だという証言の方が多いんだ」
「証人なんかいくらでもでっちあげられるわ」
 凍りついた無表情のままサマンサが言う。
「それとも他に確かな証拠があるとでもいうの?」

「あなたが嘘を吐いている証拠ならある」
 頭の後ろから急に声が聞こえたのでアルフォンスは思わず首をすくめた。
 ソファの後ろにウィルが立っていた。
「あなたはプリンスに事件を訴えた後、飛行機をチャーターして街を出て、昨晩同じくチャーターした飛行機で帰ってきた、と言ったが、それは本当ではありませんね」
「なぜそんなことが判るんです?」
「先刻ようやく確認が取れました。ゆうべの日没から夜明けまでに市内の空港に着陸したチャーター便の乗客名簿の中に、サマンサ・ドレイクおよびヒースという名前は一つもない」
 瞳の色と同じく冷ややかな声音で、ウィルは傲然と断言した。バルコニーに出たきりなかなか戻ってこなかったのは、それを調べるために電話をかけていたものらしい。
「それはそうでしょう。ヴァンパイアの移動専用に特別に手配してもらった便だもの。人間に調べさせたって出てくるわけないわ」
「あいにくだが、そっちも調査済みですよ。ニューオーリンズ市内の空港を支配しているヴァンパイアが、たまたま私の祖と旧知の仲でしてね。ついでに言うと、この一週間、市内から飛び立ったチャーター機の中に、ヴァンパイアを乗せた便はありません」
「嘘よ……プリンスが記録に小細工させたのよ」
「しかし我々にはその可能性を疑うだけの根拠がない。それとも、あなたが昨夜たしかに飛行機に乗っていたことを他の方法で証明できますか、ミス・ドレイク?」
「私は……」
「プリンスを恐れて欺こうとしたのならまだ判るが、それならなぜ我々には初めから本当のことを言ってくれなかったのですか? 我々をも欺いて、あなたは一体なにがしたかったんですか?」
「騙してなんかいません!」サマンサの声がとがった。
「ほら、また嘘をついた」
 そう言ったのはサレインだ。
「言葉で騙しおおせても、オーラはそうそうごまかせませんよ。ドレイクさん、今のあなたよりも、あなたが告発したマイケル少年のオーラの方がよほど正直でした。今ならまだ間に合う、本当のことを教えてください。でなければ、僕たちは……あなたを告発しなければならなくなる。虚偽の訴えで司法官を不当に召喚した罪で」
「あなたたちは……どうしても私を罪人にしたいわけね」
「他の結論に説得力がないというだけです」
 ウィルがぴしゃりと言った。
「仮の話として聞いてください。我々はまず、アナーキーの傭兵集団にニューオーリンズ行きを阻まれた。ニューオーリンズに入った後では頭のおかしいヴァンパイアに襲われた。運が悪ければ今ごろ我々は灰になっていたでしょう。
 だが、プリンスがこれらの襲撃を指示したということはありえない。なぜならアナーキーどもは、我々の車を襲った。しかも車が通るルートを知っていた。プリンスは司法官から我々の名前と、ひょっとしたら人相ぐらいは聞いたでしょう。だが、我々がどんな車に乗っているか、ヒューストンからどんなルートでニューオーリンズに向かうのか、そんなことは知らなかったのです。それを知るには司法官に聞くしかないし、聞けば司法官は不審に思ったでしょう。プリンスにとっては関係のない話なのですから。ましてや訴えられたのはプリンスの子供です。事件のもみ消しを図っているのではと疑われるようなことをわざわざ進んでするでしょうか?

 第二の襲撃はなおさらプリンスの指示と考えるには不自然だ。彼があなたに罪を着せるつもりなら、襲われるのは我々ではいけないのです。自分で犯罪の調査を頼みに来る犯人はいません」
「墓穴を掘ったわね」サマンサにやや余裕の笑みが戻った。「その論法だと私が襲撃を指示したことにもならなくてよ。自分で犯罪の調査を頼みに来る犯人がどこにいるもんですか」
「実はいるのです。ただプリンスが襲撃の黒幕であればこの論理は成り立たないというだけです。
 もし襲撃を指示した人物が、〈六戒破り〉を犯しても揉み消したい犯罪をおかしたのなら、司法官が我々と合流してから襲撃を実行するでしょう。その方がよほど効率的だ。ところが実際は我々ばかりが二度も襲われた。もしこれが成功したとすると、司法官はたった一人で街に到着し、そしてサマンサ、あなたに会いに来るわけだ。
 真偽はどうあれ、あなたの訴えはどうも曖昧すぎる。叩けば簡単に嘘が出るようなでっちあげの事件の捜査を司法官に依頼する理由は何です? まさか自分の論理構成力の完璧さを試すためとは言わないでくださいよ」
「ウィル! よせ。もう充分だ」アルフォンスが低い声で警告した。が、何を思ったかウィルはそのまま先を続ける。
「サマンサ・ドレイク、あなたは事件の調査に来てほしかったのではなく、ウォルシュ司法官に来てほしかったのでしょう?」
 サマンサの驚愕はこんどこそ本物だった。これにはむしろウィルの方が意外な印象を受けた。サマンサはこちらがそこまで感づいていると予測したからこそ、自分の屋敷に呼びつけたのだとばかり思っていたからだ。
「我々が動き回っては、司法官が到着するまでに、この事件が彼を呼び出す口実とばれてしまうかもしれない。しかし司法官にはなんとしてもニューオーリンズに来てもらいたい。だから……」
「違う、違う、違う!」サマンサは激しく首を横に振った。「あなたたちはプリンスに騙されてる。私を街から追い出す道具として利用されてるだけよ。あの口先だけは達者なトレアドールにいろいろ吹き込まれたせいで私の言うことをみんな曲解してしまってるのよ。飛行機の記録だってそうよ、もう一度よく調べてみれば、きっと改竄した跡があるはずなんだから」
 ウィルがなおもたたみかける気配を見せたので、業を煮やしてアルフォンスは立ち上がった。立ち上がりざまウィルの靴の甲を思いきり踏んづけてやったので、ウィルはとどめの一言を口にするタイミングを見失う。
「どうもこいつは口が悪くていけない。ともかく、そちらのおっしゃる事はわかりました。あらためて調べ直す事もできましたし、今夜のところはこれで失礼させていただきます。後日また司法官同行でお目にかかりましょう」
 サマンサは今にも泣き出しそうな顔でアルフォンスを見上げた。妖しい翠玉の瞳がほんとうに潤んでいる。〈傀儡〉の妖力を警戒してアルフォンスが視線をそらすと、サマンサはその腕にすがりついた。
「待って、お願いだから、どうか私たちを置いて行かないで。私には分かるのよ、ミスター・ジョンソンが私とヒースに何か恐ろしいことを企んでいるのが。ここにいてウォルシュ司法官が来るのを待っていてはいけないの?」
 ウィルは誰にも聞こえぬよう小さく溜め息をつく。判っているさ、あっさり帰してくれるわけがない。
〈仕掛けて来るなら、早く来い〉
 アルフォンスが丁重だが断固とした態度ですがりついたサマンサの手を外し、
「命令ですから、司法官を迎えに行かねば。あす日が沈んだらすぐ戻ってきますよ」
 叱られた子供のように、サマンサは肩を落としてうつむき、
 うつむいたままぽつりと言った。
「〈血族狩り〉を率いて戻ってくるんでしょう。だめよ、私はプリンスも彼の兵隊たちも要らないの。要るのはアルカディアン・ウォルシュだけ」
 顔を上げた時、彼女の唇には淡い微笑みが浮かんでおり、そして静かに、とても低い声で――
「だから、あなたたちも要らないの」
 その瞬間、六人のヴァンパイアが部屋になだれこんできた。

第七章血闘
Hated Her Own Existence

二人はひさしの上から窓を破って、二人は背後の壁の隠し扉から、二人は暖炉の両脇の隠し扉から、軍の特殊部隊もかくやという迅速な動きであっという間に四人を包囲してしまう。全員が棍棒や斧で武装し、さらに四人はクロスボウを携えていた。アナクロな、と莫迦にしてはいけない。矢が心臓を貫通すれば木の杭を打たれたのと同じでヴァンパイアは完全に麻痺してしまう。
「ひとつだけ」ウィルは包囲陣ごしにサマンサに呼びかけた。
「冥土の土産だ――狙いはやはり、ウォルシュの血と魂か?」
「そうよ。今度こそ、私は自由になれるわ」
 淡い微笑はいまや妖しい、淫蕩な笑みに広がっている。
「私の心を読んだの? たいした〈千里眼(Auspex)〉使いね」
 ウィルは静かに首を横に振った。
「いや。司法官は、はじめから気づいていたよ」
 彼には知る由もなかった。そのひとことが、美しきマルカヴィアンの妄想の根底を粉砕し、危うい精神の均衡を破る呪文だったとは――
「その男から殺して!」
 絶叫して、サマンサは応接間の扉の方に身をひるがえした。
 左胸に強い衝撃を感じるのと、クロスボウの弦がびぃんと鳴るのが同時だった。
 張り詰めていた糸が切れるように、ウィルはかくんと膝を折り、その体がゆっくりと前のめりに倒れた。

「てめえ!」
 ムラトが吼えた。
 予備動作もなく右脚が黒い稲妻と化して跳ね上がった。生卵が砕けるような嫌な音がして、クロスボウを構えたヴァンパイアがのけぞり、文字どおり宙に吹っ飛んだ。仰向けに倒れた首がおかしな方向を向いていた。頸骨とあごが砕けている。ヴァンパイアだけに死にはしないが、再生には時間がかかるし、少なくとも激痛で当分は動けまい。手からこぼれ落ちた、真っ二つにへし折れたクロスボウが、蹴りの威力の凄まじさを物語っている。むろん、いくら生前荒事で鍛えたムラトの体とはいえ、常態でできる業ではない。体内の血液を燃焼させ、瞬時に筋力を増幅させたのだ。

 思わず状況を忘れてアルフォンスが感嘆の声をもらしたとたん、長柄の斧が振り下ろされ、あやうく腕を切断されそうになる。斧の主には見覚えがあった。昨夜バンにショットガンを撃ち込んだアル中である。
「くそっ、奥の手しかないか」体術のさほど得意でないアルフォンスはひとりごちた。「恨むなよ――先に手を出したのはそっちだぜ」

 ムラトは〈鬼速〉を発動させ、反射速度を限界まで高める。後ろも見ずに肘打ちを叩き込み、そいつが棍棒を振り上げた姿勢のまま肋骨を半分がた折られてしゃがみこむのには眼もくれず、別の奴の襟首をひっつかんで飛んでくるクロスボウの盾にした。
 今の彼なら、人狼とさえ互角に戦えるだろう。
「サレイン! アルフォンス! 先に逃げろ!」

「でもそれじゃ――うわっと」サレインはやたら大振りしてくる鉄パイプを飛びすさってよけた。無意識の動作だったが、間合いが広がったのを幸いに、めったに使うことのない小型リボルバーを両手で構え、続けざまに撃った。狙って撃てるほど銃には慣れていない。それでも弾は敵の両膝をきれいに撃ち抜いていた。
「お返しですよ……あなたが僕のおなかに開けた穴にくらべればかわいいもんでしょ?」
 呻きながらへたりこむヴァンパイアに背を向けながら呟いたのは、そいつが昨夜コンビニでサブマシンガンを乱射した女店員だったからだ。〈鬼速〉を発動し、軽く二回の跳躍で割れた窓から外に飛び出す。

 アルフォンスは低く呪文を詠唱しつつ、両手で複雑な印を次々と結んでいく。〈魔術(Thaumaturgy))〉に必要なイメージの連続を維持しつつ敵の攻撃を回避しているために、額には汗がにじんでいる。中世ヨーロッパの錬金術師集団から伝わる呪文はラテン語に似て非なる奇怪な韻律をもち、ときとして人の言葉と思えないような発声を要求した。
 絞り出すようにこの世ならざる名を呼び、空中に差し伸べた手の上で、巨大な力の螺旋が完成する。
「破却せよ、炎よ、破却せよ、破却せよ、破却せよ!」
 力の螺旋は紅蓮の渦巻く炎となった。アルフォンスの掌から滑り降りて長柄の斧をふりあげたヴァンパイアを包む。
 炎が消えた時、そこに残っているのは一握りの灰と、赤熱し溶け曲がった斧の残骸だけだった。火はヴァンパイアに本能的な恐怖をもたらす。残りの敵がひるんだ隙にアルフォンスはサレインが飛び出した窓に向かって走った。
「ムラト、ウィルを連れて早く! 二度はできん!」

「こいつを倒してウィルの仇を取ったらな!」
 ムラトの三人目の相手は棒術の経験でもあるのか、前のより粘った。予想外に鋭く、重い一撃をムラトは前膊で受ける。
 ふっと腕にかかる重みが軽くなった。
 側頭部を撃ち抜かれた敵がずるずると倒れ伏す。
「ひとを勝手に殺すんじゃない」
 銃口から煙のたちのぼるリボルバーを構えたウィルが憮然とした顔で言う。

 逃げる二人の背中に向けてヒースが拳銃を撃つ。数発は当たったものの、どちらの足を止めるにも至らず、先の二人と同じくたちまち庭園の夜闇に紛れてしまう。ヒースはすぐに後を追うよう生き残りの三人に命じ、無惨に破壊された窓から外を見やった。
「……案外にもろかったこと」
 呟きは死んだヴァンパイアたちに向けたのか、それともサマンサの計画のことか。不意に彼女は震え始めた。見開いた目に恐怖が満ち、両腕で自分の肩を抱き、ガラスの破片の散る床に座り込み、胎児のように体を丸めて――それでいて、開いた口からはとてつもない哄笑がほとばしる。
 ヒースもまた、マルカヴィアンだった。
 見開いた紺青の虹彩に映るのは、荒れ果てた室内でも蒼白な月でもなく、現実の光景ですらなかった。
 石榴のように割れた頭蓋、
 柔らかに零れる琥珀の脳漿、
 それを包む暗褐色の髪と美しい女の顔、半分。

 四人はひとけの死に絶えたようなファーミントン通りを逃げている。迎えのリムジンを呼ぼうにもウィルの携帯電話が壊れていてどうにもならない。確か途中でコンビニの前を通ったはずだというサレインの言葉を信じて、皆が必死に走った。それにしても車で十何分という距離だから徒歩で何キロあるものやら判らない。平素から頭脳労働派を自称するウィルやアルフォンスなどはずいぶん前から疲労で膝が笑っている。それでも誰も立ち止まらないのは、足をゆるめればとたんにサマンサの手下たちが襲ってくるからだ。どうやら先方はよほど土地勘があって、先回りしながらこちらが弱って動けなくなるまで追い立てるつもりらしかった。だが、ムラトでさえすでに戦える体調ではなかった。ヒースに撃たれた銃創もまだ再生しきっていない。
 非現実的な悪夢の空間にさまよいこんだようだった。このまま永遠に逃げ続けなければならないのではないかという莫迦げた空想を振り払おうと、ムラトはウィルに話しかけた。一度死んだ身だから息が切れることはないのがせめてもだ。
「それにしても――クロスボウが心臓を直撃してよく動けたもんだ。厚いのは面の皮だけじゃなかったのか」
「うるさい。偶然貫通する前に止まっただけだ」
 気の利いた憎まれ口を考え付く気力もないらしく、ウィルは素直に種明かしをした。胸ポケットからロザリオを出したのだ。数珠は切れ、十字架が妙な形に歪んでいる。矢は金属製の十字架に当たったものらしい。
「案外信心深かったんだな、おまえ」
「いまさら神なんか信じて何になる。これは単なる形見だ」
 それだけ言って、ウィルは元どおりロザリオをしまいこんでしまった。

「吸血鬼が十字架に救われたというわけだ。ブラム・ストーカーが聞いてたまげるな」
 後にその話を聞いたウォルシュ司法官は言った。
 ようようサマンサの追っ手をまいてプリンスのヨットに帰還してからのことである。さすがに神妙な表情で、口を真一文字に結んで四人の報告に耳を傾けていた彼が、最後に一言だけたたいた軽口がこれだった。ウォルシュは共に報告を聞いていたミスター・ジョンソンの方に向き直ると、
「さて、明らかにサマンサ・ドレイクは第六戒と〈悪魔の業〉を犯している。おそらくは第三戒もな。滅びの罰を受けるには充分な罪状だろう。ニューオーリンズのプリンスよ、マルカヴィアンの司法官から正式に〈血族狩り〉の招集を要請する」
「承知した」ミスター・ジョンソンは重々しく頷いた。
「さっそく街のヴァンパイア全員を……と言いたいところだが、司法官殿も御存知のとおり大半はトレアドールだし、荒事に向かない者や年若い者も多い。ここは少数精鋭で行くことにしましょう」

 明くる晩。
「なーにが少数精鋭だよ。要するにてめえの子供を減らしたくないだけじゃねえか」
 ムラトは毒づいた。〈血族狩り〉といえばかつてシカゴで百人単位の死者を出した有名な「地の染まりし夜」にも参加したこともあるだけに、この晩の顔ぶれはいかにも物足りなかった。
「そう悲観したものでもありませんよ。三人といってもプリンス直系の第九世代でしょう。トレアドールが多い街の領主としては誠意が見える方だと思いますがね」
 サレインの言うとおり、結局ミスター・ジョンソンが派遣したのは三人だけだったのだ。
「ま、新入りや戦闘向きじゃない連中で頭数を揃えて、あとで足をひっぱられるよりはマシか」
「おれだって戦闘向きじゃないんだぞ」
 ウィルがぶつぶつ言った。
「おまえは血の使い方が下手なだけだ」ムラトは決めつけた。「とにかく自分が殴り倒される前に相手を殴り倒せば勝ちなんだ。策を弄する暇があったら敵に一発でも多く叩っこむんだな」
「……野蛮な……」
「機敏な判断と言え」
 またも二人の間に険悪な雰囲気が流れたが、折り良くウォルシュが通りかかって例によって素っ頓狂な挨拶をしていった。
「いやあ、勇敢なる諸君、血気に逸るのは結構だが、君たちには兵士の前にまず刑事として働いてもらわにゃならん。ゆうべの一件でサマンサ・ドレイクの有罪は決まったようなものだが、物証が出ればそれに越したことはないからな。要するに、家宅捜索というやつさ」

 ドレイク邱は、あるじがいない点を除けば、何もかも昨夜四人が脱出してきた時のままだった。家中の明かりが煌々とついており、戦場と化した応接間はその後物を片付けた形跡もない。アルカディアンはてきぱきと指示を下し、一行は手早く徹底的に邸内を捜索した(もっともアルフォンスとサレインは頻繁に手を止めて、屋敷中に飾られた貴重な骨董品をうらやましがったり蘊蓄を披露したりしていたが)。サマンサとヒースの影も形もなく、彼女たちの手下らしいヴァンパイアの生き残りもいない。唯一注意を引いたのは地下の一室だけで、コンクリート剥き出しの部屋の隅に、鎖につながれた人間が三人、ちぢこまって震えていた。おそらくサマンサの手下達の食料でもあったのだろう。みな、完全に発狂していた。ウォルシュはしばらくこの囚人たちを怒りと哀れみがないまぜになった顔で見つめていたが、せめて惨めな家畜の暮らしからは解放してやらねばと言って折り畳みナイフを出し、事務的な手つきでさっと喉を切り裂いた。そもそも彼らをこんなひどい境遇に置いたのはサマンサだと判っていても、後味の悪い作業だった。
 やがて、かすかに自動車のクラクションが聞こえた。

「使い魔に見に行かせましょう」
 地下室の階段をのぼりかけたウォルシュを制してアルフォンスが言った。いつ召喚したものか、手の中から骸骨の鳥がぱっと飛び立ち、すぐに戻ってきた。アルフォンスはその鳥を手にとまらせたまま少しのあいだ目を瞑り、おもむろに
「サマンサが帰ってきたようです。昨夜の生き残りの三人と、それから沼地で会ったルシアンとアナーキー達を連れています。アナーキーが厄介ですね……十五人はいる上に、重武装ですよ。ショットガンだの、アサルトライフルだの」
 ウォルシュは珍しく苦虫をまとめて噛み潰したような渋面を作った。
「戦争でも始めるつもりか、連中は」
「そのようですね。彼我兵力差2対5ですか、勝てば武勇伝ができますよ」
「ワーウルフじゃあるまいし、そんなもの何の足しにもならんわい」
 ウォルシュの渋面はいっそう苦々しくなった。

 屋敷の前にひどく旧型の大型トラックが停まっていた。先刻からひっきりなしに鳴っていたクラクションの元はこれだったのだ。昨晩の生き残りの三人や、ルシアンの手下たちがすでに荷台から降りて歩き回っている。
 サマンサはトラックを背に立っていた。髪をうなじでまとめて束ね、漆黒のジャンプスーツは動きやすさを重視したデザインだが、彼女の華やかな美しさは少しも損なわれていなかった。トラックの無骨なヘッドライトもこの女ヴァンパイアのための舞台照明のようだ。
「いよう、久しぶり」
 運転席から身を乗り出してルシアンがムラトたちに手を振った。緊迫した雰囲気にそぐわない、お気楽な笑顔と口調である。まるで年来の友人に出会いでもしたようだ。
「ルシアンてめえ、なんでここにいる?」とムラトが凄んだ。
「ミス・ドレイクと再契約したのさ。おっかない顔するなよ、今夜はあんたらを殺しにきたんじゃないからさ。基本的には、俺はここから見てるだけだ」
 サレインは彼の口調から初めて会った時のフランス訛りが完全に消えていることに気づいた。多分彼も、サマンサ・ドレイクと同じく、いくつもの肩書きを使い分ける人物なのだろう。
「見ているだけ?」
「今回の俺の役目は、ミス・ドレイクとミスター・ウォルシュの決闘に第三者を介入させないこと。これから始まる決闘を邪魔しないでくれれば、俺も手荒なことをしなくてすむ」
「決闘だと?」ウォルシュが唸った。「サマンサ・ドレイク、おまえはそんな名誉ある扱いが受けられる身の上ではないぞ。同族を滅ぼし、〈悪魔の業〉を行ない、公主の許しなく子供を創った。心臓に杭を打ち込んだ上で太陽に晒して焼き殺されても文句は言えんところだ」
 サマンサは声高く嘲笑った。
「決闘を申し込んだのはむしろ私の温情と考えていただきたいわ、司法官。私とあなたが一対一で戦う限り、ルシアンはいっさい干渉しないし、他の干渉も許さない。あなたが勝てば、すなおに去って行くだけ。でもどうしてもあなたが決闘をしたくないというのなら、私と私の子供たち、ルシアンたち、総勢20人で力の限り抵抗させてもらいます。あなたとそちらの勇敢な七人の兵隊さんで、この人数を取り押さえる自信があって?」
 嘲笑すらも絵になる女だった。ウォルシュは言葉にならない低い呻き声を漏らした。プリンスの子供たちが顔を見合わせた。
「我々三人はおまえと司法官の決闘を支持しよう」彼らの一人が言った。「今宵の流血は避けられんだろうが、どうせ流れるなら少ない方がいい」
「賢明ね」サマンサが婉然と横目で一瞥し、ウォルシュは物凄い目つきで三人をにらんでいた。
「あとの四人はどうなのかしら? もっともウォルシュ、あなたの返事しだいでしょうけど」
 ウォルシュは再びどちらともつかぬ唸り声を出した。
「司法官」ムラトがウォルシュにだけ聞こえる小声で囁いた。「無理に受けるこたぁありませんよ。向こうは二十人といったって、サマンサとルシアンさえ押さえてしまえばこちらの勝ちだ。五人でもなんとか……」
「それは希望的観測と言うのだ」ウォルシュはうつむいて口髭を無意味にひねりながら、「ルシアンの力をあなどるなよ」
「そんなに――強力なヴァンパイアなんですか」
「危険な男だ」
 思い切りをつけるようにきっぱりと言うと、ウォルシュはじろりとサマンサを見て言った。
「……よかろう。業腹だがこの決闘、受けてやる」
「司法官!」
「少しでも生きのびる確率が高い方法を選んだだけだ。まだ死にたくはないのでな。それにできれば、君たちが死ぬところも見たくない」
「いい心掛けね」
 サマンサが冷ややかに言った。
「じゃあ始めましょう、ウォルシュ。小細工はなし、私とあなたの一騎打ちよ。場所はここ、時間はたった今から。武器はあなたのお好きなもので」
「では」と応えてウォルシュが手に取ったのは、愛用のステッキだった。
「サバテか」ムラトが呟いた。
「なんだ、その黒魔術の親戚みたいな名前は」
「フランスの格闘技だよ。ステッキを使って戦う護身術がある。司法官はサバテの名手なんだ。一度、自分より身長も目方も相当ある男をあのステッキでたたきのめしたのを見たことがある」
「なら一応勝算はあるんだろうか」
 あながち、やけっぱちでもなさそうなのでアルフォンスはいくぶんほっとする。
「どうかな。闘いは最後まで判らないもんだから」
 ムラトは珍しく歯切れの悪い言い方をした。
 サマンサにウォルシュのステッキと同じくらいの長さの棒が手渡された。芝生の上で二人が向かい合うと、ショットガンやアサルトライフルを構えたルシアンの手下たちが散開してムラトたちやプリンスの子供たちを取り囲んだ。

 決闘が始まった。
 戦況はほぼ互角。パワーとスピードではサマンサがわずかに勝っているが、きちんとした格闘技の訓練を受けているという点ではウォルシュが有利だった。速さに劣る点を攻撃の読みの的確さで補っている。
〈だが――互角では、守勢に立った方が負ける〉
 ムラトはずっと、脳裏から不吉な予感が拭えないでいる。
〈サマンサにはもう失うものは何もない、捨て身で攻撃してくるはずだ。対して、ウォルシュの爺さんには守るべきものがありすぎる……〉
 長い間、好勝負が続いた。だが少しずつ、ほんの少しずつ、ウォルシュが攻勢に回る時間が短くなってくる。
〈やっぱり疲れてきたんだ〉サレインの心にも不安が芽生えはじめていた。〈ヴァンパイアになった時点ですでに初老だったウォルシュさんと、どう見ても30歳そこそこで肉体の年齢を止めたサマンサでは基礎体力が違う〉
 それに、いつになく寡黙なムラトの様子も気になった。
 やがてウォルシュはもっぱら守勢一方に傾いてきた。時折サマンサの隙を的確について一撃をくりだすものの、サマンサの動きにはほとんどダメージはうかがえない。
「サレイン」ウィルが身体を寄せるようにして囁いた。
「ルシアンの手下には屍鬼が混じってたって言ってたな」
「ええ」
「向こうの……トラックの近くにいる連中。どれが屍鬼だか判るか?」
「ちょっと待って。ええと、向かって右の、穴の開いたブーツを穿いてる男。それと左のリアタイヤの辺りに立ってる長髪の不細工なの、かな。でもこんな時にそんなこと訊いてどうしようってんですか」
「アルフォンスの口癖じゃないが、俺にも奥の手があるのさ。いちかばちか、ルシアンを抑えてみる」
 ウィルは微かに笑った。だが、アナーキーの一人がひそひそ声の会話を聞きとがめた。
「おいそこの。俺に聞こえる声で喋るか、黙って見物するか、どちらかにしろ」
 ショットガンを向けられ、サレインは肩をすくめて口をつぐんだ。と、突然ウィルがふらりとよろめいてこちらにもたれかかってくる。
〈なるほど、憑依を使いたかったわけか。あれはヴァンパイアには効かないから〉
「おい、そいつは寝てるのか? 親分が戦ってるのに不謹慎な奴だな」
「貧血ですよ。彼は今夜食事抜きでかけつけたものでね」
 サレインがすまして答えると、声をかけたアナーキーは二、三歩あとずさった。どうやら彼も屍鬼らしい。

 穴の開いたブーツを穿いた男は、不意に南京虫の大群に襲われでもしたように、首筋や腕をぽりぽり掻きはじめた。大きすぎるブーツの中で足の指をもぞもぞ動かす。やがて落ち着くと、おもむろにトラックの運転席に向かって近寄っていった。

 サマンサの烈しい一撃が再びウォルシュの右手首を見舞った。ウォルシュはどうにかステッキを落とさずに持ちこたえたが、同じ場所を二度殴られてかなり辛そうにしている。サマンサもそれを見抜いて、集中的に右手首を狙い始めた。

 穴開きブーツを穿いた男は、トラックの運転席の窓をノックした。ウィンドウが降りてルシアンが顔を出した。
「おう、何事だ」
「ちょっとあちらを見てください。何だと思います?」
「あん?」
 指差した方向に何気なく顔を向けたルシアンの後頭部に、穴開きブーツを穿いた男はアサルトライフルの銃口を突きつけた。正確には、突きつけようとした瞬間、ついとルシアンの手が伸びて銃身をつかみ、凄まじい力でフロントガラスの方へねじまげた。穴開きブーツを穿いた男はライフルを捨てて逃げようとするが、そのとき彼の額に大口径の自動拳銃が突きつけられた。
「ざんねんでした」
 肩越しに拳銃を構えながら、ルシアンはにやにや笑った。
「定時報告しろと言われてもいないのに勝手に持ち場を離れて俺んとこに報告にくるような時は、緊急事態の合言葉をいう決まりになってるんだなあ。それを言わないと、問答無用で撃たれてもしょうがないわけ。おい、誰だか知らんがこいつの頭ん中にいる奴」
 ルシアンは穴開きブーツを穿いた男の眼を覗き込む。
「〈憑依〉が使えるとは、若僧のわりになかなかやるな。だが相手が悪かった。俺をだますにゃ三百年早いぜ」
 にやにや笑いを絶やさぬまま、彼は自動拳銃のトリガーを無造作に引いた。

 サレインにもたれかかっていたウィルの体が大きく痙攣した。依り代を殺されたショックで、自分の身体に戻ってきてもしばらく不快感がおさまらない。
「すまん。しくじった」
 心配げにのぞきこむサレインに、ウィルは吐き気をこらえてようやくそれだけ答えた。まだ脳の中を銃弾が通り抜けてゆく感触が記憶に残っている。

 じりじりと後退を強いられながら必死に反撃の機会を捜しているウォルシュを、本人に劣らぬ焦燥に臓腑をかきむしられるような思いで、ムラトは見ている。このままではもはやウォルシュに勝ち目はない。哀しいほどに判ってしまう。このままサマンサが隙を見せなければ、ウォルシュは負ける。
 隙を作る方法は思いついていた。ただ、この決闘に介入するのが正しいことかどうか、ずっと迷っている。ウォルシュは根っからのイギリス紳士だ。不本意とはいえひとたび受けた決闘を、卑怯な方法で勝つのは潔しとするまい。
 だが、この闘いに負ければ、ウォルシュは名誉どころか、魂までも失うのだ。いつも口をきわめてこきおろしているが、ムラトはこの老ヴァンパイアが嫌いではなかった。そうでなければ自由を愛するブルージャが人の下につくものか。ウォルシュにしても、ブルージャの部下がいることを一種の人徳の証しとして密かに自慢していた。
 まあ、いいさ、とムラトは思い切った。後で責められたらその時はその時のことだ。サマンサを勝たせてしまったら、俺はきっと後悔する。

 それは〈蠱惑(Presence)〉の妖力、人の感情を揺さぶる力を学ぶ者が、一番に習う初歩の術だ。同じ〈蠱惑〉の他の術に比べてもごく原始的であり、それだけに、世代も種族も超えて作用する。
 「恐怖」の術。およそ生きとし生けるものすべてが持つ、本能と強く結びついた感情を、恐れを、呼び起こす。

 不意にサマンサは背後から異様な気配を感じた。すぐそこに危険な存在がいるような。振り返って見る暇はない、とサマンサはもう一度戦闘に没頭しようとした。だが、無視しようと務めれば務めるほどかえって気配の正体について想像が膨らんでしまう。

ほら、おまえのすぐ後ろ、ほんのちょっと頭をめぐらせたところに、とても恐ろしいモノがいるよ

 人が誰しも心の底に飼っている獣、獣性という名の本能が、理性にささやきかける。

おまえにとって危険な とても危険なものがいるよ
だから少しだけ振り向いて 正体を見極めたほうがいい…

 ついに我慢できずサマンサは振り向いた。
 長身のブルージャがひっそりと立っていた。
 そしてサマンサは本能が警告した危険の正体を悟った。
 振り返ることこそが危険だったのだ。
 向き直ったサマンサの目の前に、容赦なくステッキが振り下ろされる。


 ウォルシュはサマンサの手がゆるんだ隙に棍棒を叩き落とし、最後の渾身の一撃で自分の棍棒をサマンサの側頭部に叩き込んだ。頭蓋が砕けるなんとも嫌な音がした。サマンサは芝草の上に仰向けに倒れた。かつては美しかった顔は半ばいびつな形に歪んでいる。見開かれた眼にはもはや意識の光はない。

 石榴のように割れた頭蓋、
 柔らかに零れる琥珀の脳漿、
 それを包む暗褐色の髪と美しい女の顔、半分。

 ウォルシュはなおも油断なく棍棒を構えたまま倒れたサマンサの上に立ちはだかっていたが、ややあって燃えるような目でルシアンの方に振り返り、
「終わりだ――引け」と宣言した。
「まずはおめでとうと言っとくよ」
 ルシアンはウォルシュよりもムラトたちの方を向いてにやにやした。ことによるとムラトたちが妖力で干渉を試みたことに気づいているのかも知れなかった。
「決闘は終わり、俺の仕事もこれで終わり。さ、引き上げるとするか。幸いにも依頼人はくたばる前に約束の報酬を置いてってくれたし」
 ルシアンが手招きすると、それまでアナーキーの味方をするでもなく、ただトラックの横に突っ立っていた三人のサマンサの子供が寄ってきた。彼は三人の顔を順に見わたし、
「おまえたちの祖との契約で、今から俺がおまえたちの主人だ。俺の言うことを聞いてる限りは、じーさまがたにへいこらする必要はない。ま、代わりにやってもらうことがあるが、それはぼちぼち覚えりゃいいさ。とりあえず最初の命令は、とっとと荷台に乗りやがれってことだ」と言いつけた。
「ルシアン!」ウォルシュが大声で呼びかけた。「貴様が今の生き方を改めん限り、いつかカマリーラの報復は免れんぞ」
「そりゃ楽しみだ。あばよ、爺さんと新米ども。縁があったらまた遊ぼうぜ」
 いい加減にひらひら手を振ると、ルシアンは飄々とした足取りでトラックの運転席に乗り込んだ。ムラトたちが追おうとするのをウォルシュは手で制し、複雑な表情で走り去るトラックを見送った。
「……いいんですか?」
「今のおまえたちが手を出しても火傷するだけだ」
 ウォルシュは足元に転がるサマンサの死体を見下ろした。
「この女、わしと戦っている間じゅう、『死ね、ヴァンパイア』『汚らわしい吸血鬼め』と罵りつづけていた。もしかしたらこの女の狂気は、自分がヴァンパイアであることを憎悪するという点にあったのかもしれんな。だからこそ真偽も怪しい伝説に賭けて人間に戻ろうと思ったのだろう。さても恐ろしい女人だったが、その恐ろしさに敬意を評して、陽光に焼かれる前に死体を焼いてやるとするか」

Mortal Desire The End



薔薇を、――いちいの枝ではなく、
薔薇の花を、彼女の上にまくがいい!
寝顔のなんと穏やかなことか!
できれば、私もあやかりたいほどだ。

陽気だったのは、世間がそう強いたからだ。
いかにも零れるような微笑をふりまいていた。
だが、心はただ疲れに疲れていた、
そして、やっと今、その世間から解放されたのだ。

熱気とざわめきの坩堝に巻きこまれ、
ただ必死に流転の生活を送ってきた。
だが、その間、魂はひたすら安らぎを求めて喘いでいた、
そしてやっと今、その安らぎを取り戻すことができたのだ。

元来のびやかなのに閉じ込められていた心は、
息をつこうと必死に羽搏き、そして息切れしてしまった。
だが、今宵こそ、死という空漠たる大広間を、
やっと自分のものとすることができたのだ。

――マシュー・アーノルド『死者のための祈り』


彷徨編から読み直す

Vampire Indexに戻る