←Index | 第1幕 | →Next |
アメリカ・コロラド州、デンバー
1998年 初夏――
雨が朝方に止んだので、久しぶりに穏やかな日になった。空は蒼く晴れ上がり、窓越しにふりそそぐ陽光が心地よい。こんな午後も悪くない。
暇でさえなければ。
ホイスラー・ジェイムズ探偵事務所はいつものように閑古鳥が鳴いていた。訪問販売のセールスマンと借金取りを別にして、まともな客が最後にドアを開けたのは何週間前だろう。
そろそろ仕事をしておくべきだな、と「ジェイムズ」は考える。いちおう探偵業で食っていることになっているので、あまり間をあけるのもまずい。とはいえ繁盛するのも立場上考え物で、その辺が難しいところだ。
いいかげん読み飽きた『ロッキー・マウンテン・ニュース』をゴミ箱の方に投げ、机の上から足を降ろして、ジェイムズは窓越しに青空を見上げた。天気予報によれば明日から当分見られなくなるらしい。
それが最後に見る青空であることを、「ホイスラー・ジェイムズ」はまだ知らない。
デビッド・ブラックは舌打ちしてブレーキを踏んだ。前方で旧型車がボンネットを上げて止まっている。なにも狭い路地の真ん中で故障しなくてもよかろうに。運転手とおぼしき男が車の脇で途方に暮れたように立っている。ここが追い越せないほど狭い路地でなかったら轢き殺してやるところだ。ヘッドライトの輪に古めかしい背広姿が浮かび上がった。ステッキ。灰色の長い髭。糞ジジイめ。
車を降りて老人に近づく。
「故障ですか?」
声をかけると白髪頭が重々しくうなずいた。
「この車も年寄りでな。どうにも気まぐれでいかん」
「見てみましょう」善人、ブラック。けっ。「応急処置ぐらいならできるかも」これで間違いなく遅刻だ。さぞかしルーシーは不平を鳴らすだろう。先天的忍耐力欠乏症の女だ。治療薬はない。
ボンネットに視線を動かしたとき、視界の隅にひっかかるものがあった。後部座席。ウィンドウの向こうに浮かび上がる靴――足、か?
ブラックは鋭く老人に目を戻した。
老人は途方もない力のこもった眼で見つめ返してきた。枯れ木を思わせる風采の中で唯一それだけが、獣のようにぎらぎらと精気を帯びている。暗がりで眼が燐光を放つようだ。虹彩まで赤い。
そんな莫迦な。
髭の奥で老人の唇が動いた。長い、異様に長い犬歯が覗く。
「眠りなさい」
囁きを聞いたとたん、ブラックは強烈な眩暈に襲われた。いや、眩暈に近いほどの激しい睡魔だ。
「なにを――」
「眠りなさい」
乾いた声が、脳髄から意識をもぎ取るようだ。本能的に抗いながら彼はもういちど老人を見た。もはや赤い両眼しか視界に入らない。
ヘッドライトの眩い光の中でなお、瞳孔がいっぱいに開いている。
死者の眼だ。
「化、け、物、め」
呟いたのは夢か現か、判らぬままに意識は肉体を離れ、闇の底へ滑り落ちていった。
カールは走っている。
懸命に。この場合、文字通り命が懸かっている。
つまづいて何度か転んだが、恐怖が挫いた足の痛みにうちかった。
――あれは人間じゃない。
無害な老人のかたちをしているが、中身はなにか別の生き物だ。
道を尋ねるふりでカールを呼び止めておいて、とつぜん殴りかかってきた。
よけられたのは僥倖というより他ない。間近を掠めた平手の素早さは、とうてい人間のものとは思えなかった。あの枯れ木のような指先が尖っていたのは
鉤爪ではなかったか。
カールは走る。猟犬に追われる獣のように。いつか力尽きて捕まるのが判っていて、走らずにいられないのだ。
何度目かの角を曲がり、ふいに背後の足音がもう聞こえないのに気づいた。
角越しに後ろを振り返る。
古めかしい背広姿は見えない。振り切ったのか? いや、たぶん向こうが飽きたか、あきらめたのだろう。
壁に寄りかかり、荒い息をついた。肺が焼けるように痛んだ。
前方で硬い靴音がした。
眼を上げると、古めかしい背広を着た老人がひっそりと立っている。
街灯もない路地の暗闇の中で、両眼だけが獣のように光っている。
赤く、血のように赤く。
まるで初めからそこに立ってカールを待っていたかのように、息一つ乱さず、老人が口を開く。
「怖がらずともよい――今は眠りなさい」
カールの身体は、自らの意識ではなく老人の命令に従った。
見えない巨人の指に押されるように、瞼が閉じていった。
倒れ込む身体を、老人は羽枕かなにかのように軽々と受け止める。
天を仰いで、呟いた。
「神よ許したまえ。あといっとき、ほんのいっとき、猶予が必要なのです。すべて終われば彼らをあなたのもとにお返しします。この呪われた老いぼれと同じ運命はたどらせませぬ」
←Index | 第1幕 | →Next |