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ノドの書 ― 始祖記 5. チラの物語 |
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チラの物語を聞かせよう。
カインが初めて愛した女、
カインが初めて娶った妻、
こよなく甘き血潮と、
こよなく柔い肌と、
こよなく清き瞳のチラ。
カインの新しき血裔のうちでただひとり、
チラのみを、カインは欲した。
しかしその懸想もむなしく、
彼女はカインを袖にした。
贈り物も、生贄も、
香料も、鳩も、
美しい踊り子達も、
歌い手らも、牛の群も、
彫刻も、色鮮やかな布も、
なにものをもってしても、
チラの心を石から甘果に
変えることは叶わなかった。
ゆえにカインは髯を引き抜き、
髪をむしり、
荒野をさまようようになった。
夜ごと彼女を想いつつ、
彼女に恋い焦がれつつ。
そんなある晩、カインは出会った、
月を仰いで歌う老婆に。
カインは老婆に問うた、
「なぜおまえはそのように歌う?」
すると老婆が答えて言うには、
「手に入れられぬものをなお
切に欲しておるのです」
カインは老婆に言う、
「切に欲するのは私も同じ、されど何ができよう?」
老婆は笑みを浮かべて曰く、
「今宵はわしの血を飲みなされ、
吸血族の父祖、カインよ、
そして明日の夜にまたおいで。
月のお告げを伝えてさしあげようほどに」
カインは老婆のむきだしの首から
血を飲んで、立ち去った。
翌晩、カインが老婆を見つけたとき
老婆は岩の上で眠っていた。
「起きろ、老婆」
カインは言った。
「言うとおり来てやったぞ」
老婆は片目を開けて答えた。
「今宵はおぬしのために夢占をたててやろう。
もう一度わしの血を飲んで、
明日の夜にまたおいで。
土の器を持って。
鋭いナイフを持って。
そのときまでにはお告げが下っているだろう」
ふたたびカインが老婆から血を吸うと、
たちまち老婆は深いまどろみに戻っていった。
次の夜カインが訪ねてゆくと、
老婆は彼を見上げて微笑んだ。
「ごきげんよう、〈獣〉の王よ、
おぬしが求める知恵は手に入ったぞ。
わしの血を少し採って、
おぬしが持ってきた器に入れなさい。
それに、これらの木の実と
これらの薬草を混ぜて、
できた霊薬を飲み干すがいい。
おぬしにあらがえる者はいなくなる。
おぬしは力強く、たくましくなろう。
おぬしの威光は増すであろう。
おぬしの情は熱くたぎるであろう。
おぬしは輝ける存在になるだろう。
そしてチラの心は、春の雪のように溶けるだろう」
そこで、カインは老婆の霊薬を飲んだ。
何故なら彼はチラに深く恋いこがれていたので、
チラからの愛を欲してやまなかったからである。
すると老婆はからからと笑った。声高く哄笑した。
カインはあざむかれたのだ。老婆の罠にかかったのだ。
カインは憤ること筆舌に尽くしがたく、
諸々の力をふるいおこし、
かの老婆を八つ裂きにせんと掴みかかった。
老婆は呵呵と笑って「やめよ」と言った。
するとカインは老婆に手出しができなくなった。
老婆は含み笑いをして「わしを愛せ」と言った。
するとカインは老婆の齢古りた瞳に魅入り、皺深い肌に欲情するよりほかに何もできなくなった。
老婆はげらげら笑いながら「わしを不死にせよ」と言った。
するとカインは老婆を〈抱擁〉した。老婆はまたも甲高く哄笑し、〈抱擁〉の至純の快楽に笑い続けた。なぜならなんの苦痛もなかったからである。
「わしはおぬしを強くしてやった、
エノクのカイン、ノドのカイン、
だがおぬしは永遠にわしから逃れられぬ。
わしはおぬしを万物の主にしてやった、
だがおぬしは決してわしを忘れられはせぬ!
おぬしの血は今や強められて、
おぬしがそうされたように、
それを一夜に一度、三夜にわたって
飲んだ者を呪縛する。
おぬしは主人になるだろう。
そやつらはおぬしの奴隷になるだろう。
おぬしがわしのものであるように。
望み通り、チラはおぬしを愛するだろうが、
おぬしはわしを愛するのだ、永遠にな。
さあ、可愛い花嫁に求婚してくるがよい。
わしは闇の奥処でおぬしを待っている、
おぬしの健康に良い薬を醸しながら」
そこで、重い心を抱えて、
カインはエノクに戻った。
そして一夜に一度、
三夜にわたって、
チラは祖から血を飲んだ、
それとはしらぬままに。
三日目の夜、
カインはチラを妻に娶ると告げ広めた、
最も麗しき胤子を。
こたびはチラも拒まなかった。
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